山口にルーツを持つ日系人であるJonnyのお母さん。 母親が死んでしまっている僕にとってもハワイにいるお母さんみたいな存在。 ハワイに行ってJonnyの実家であるハワイカイの家に行くと、いつも両手を広げて、僕をハグしてくれる。 そして「カム インサイ(Come inside)」と言って家の中に招きいれ、食べきれないほどのご馳走やお菓子をふるまってくれる。 とっても優しいお母さん。
明治元年からはじまったこの移民を元年者と呼ぶ。 前回の投稿に書いたように、大変な辛酸をなめ尽くした彼らだが、ハワイを楽園と思わされ、農民の経験の無い失業者のような者達が多かったのだから、結果として幸せな移民生活は元々難しかったのかもしれない。
しかし、彼らがハワイの日系移民のルーツであることには間違いが無い。 その後1881年にハワイのカラカウア王が日本を訪れ、明治天皇と政府に対し、日本からの移民を要請し、再び移民が活発化する。
しかし、移民は圧倒的に男が多く女性が少ないことから、女性をめぐって生活は荒れ、以前と変りの無い過酷な労働条件や人種偏見から、やはり日系移民は苦しい状況から抜け出せずにいた。
そんな中、ハワイ革命が起こる。 アメリカから武装兵士が上陸し、ハワイ王朝が終焉を迎える。 それに対して、当時の日本政府は、日系移民保護のため東郷平八郎が艦長を務める軍艦波速を派遣する。
これが当時の日系人を勇気付け、ハワイ王朝の終焉を悲しむハワイアンにも大きな心の支えとなった。
その後、日清戦争勃発。 それに呼応して、ハワイでも日本人と中国人の抗争が起こる。 それまで、中国人が力を持ち、日系人はそれに対して鬱積していたが、これを機に日系人の力が上回るようになる。
さらに1890年代にはホノルルの一部に日系人がやくざ組織を結成し、治安が大変悪化した。 日系人の売春婦も相当数いたらしい。
その後移民が自由になると多くの日系人がアメリカ本土へと渡ったが、もともとハワイで成功できなかった者たちだったので本土でも結局は同じことだった。 失業者や売春婦があふれた。
そのため移民が大きく制限されることとなった。 移民はすでにハワイに住む者の親族と写真結婚した者のみに許された。 写真結婚とは、写真だけでお見合いをし、入籍してからハワイにやってくるのだ。 それまでは写真意外は見たことがないままだ。
そのため、写真や履歴には詐欺まがいのものも多くかなりの問題を引き起こしたようだが、結果的にこれが男ばかりで女が少なかった日系人社会を落ち着かせることにもなったようだ。
その後勢力を増す日系人に対抗すべく他のアジアの国々からの移民を増やしたり、排日移民法が作られ、第二次世界大戦での日系人の強制収用など、苦しい思いには事欠かなかった。
日系人の強制収容などは、僕のブラのおじいちゃん、おばあちゃんから直接話を聞くことができるほど最近の話だ。 僕のブラを見ているとそのような話は遠く昔のことの様だが、明治元年以来の日系人の歴史の多くは苦しみの歴史だったといえるのではないだろうか。
僕は、大学時代1年休学をして、オーストラリアに行ったことがある。 日本で大学生をしている時は、何不自由もなく、日本社会の中流クラスにいるような自覚があった。
しかし、オーストラリアでは仕事が見つからず、新興宗教から食事の施しを受けながら、1泊600円程度の汚いホテルに住んでいた。 その時は、シドニーの街中をスーツを着て歩くオーストラリア人がとんでも無いエリートに見え、特別な能力が無いために体力勝負の単純労働にしか職を求められない自分は、「社会の最下層に入ってしまった。 移民とはこういうもんだな・・・」と愕然と思ったことがある。
でも僕には、1年後に日本に帰ることができる航空券を持っていた。 ハワイへの日系移民は帰りの切符は無かったのだろうと思うと、胸が詰まる。 僕の最もきつい仕事は、冷暖房の効いている八百屋で野菜を運ぶ程度だが、彼らは炎天下で12時間休み無しの過酷な労働を強制されたのだ・・・ なんという過酷な人生だったのだろう。
もともとハワイの人々は家族を大切にし、大家族で暮らすが、日系人の家庭も祖父母や両親をとても大切にする。 きっと彼らの苦労を知っているからではないだろうか? 彼らに対する感謝の気持ちが強いのだと思う。 彼らの苦労のおかげで今の自分の恵まれた環境があることを理解しているのだ。
あなたの家ではどうだろう? Respectを忘れてはならない。
A hui hou.
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