Jonnyの結婚式翌日、奥さんサイドの出席者が招待されジョン・ドミノスでランチ。 僕は披露宴では当然Jonnyサイドの出席者だったのだが、都合の良い時は日本人の招待客に混じってランチに出かけた。 グレッグは日本の結婚式の仲人にあたるBest Manだから当然招待された。 ランチの後、ジョン・ドミノスの前で。 左のがらの悪そうなのが僕。 (人を外見で判断するのはやめましょう!) 右がブラのグレッグ。 彼の短く刈った髪の毛が気持ちよくてすりすりしているところをパチリ。
Jonnyのお母さんだけでなく、このグレッグの両親もまた日系人だ。 グレッグは沖縄系だ。 ハワイでは、広島や山口辺り出身の日系人が比較的多いが、沖縄出身も結構いるようで、Okinawan Festivalなるものも開催されている。
ある女の子は「私はハーフなの」と言うので、どことどこのハーフか聞いてみたら、日本と沖縄と言われたことがある。 沖縄出身者はちょっと日本人とは違う意識を持っているのかもしれない。
いずれにしても、日系人の歴史は何日か前にも触れたが、大変な苦労の連続だった。 元々は白人の経営するプランテーションの単純労働作業者の供給先として日系人の移民に白羽の矢がたったのだ。
明治元年頃から移民が開始されたようだが、「天竺(=パラダイス)行きの人夫募集」の誇大広告に騙され、153人が名乗りをあげた。
この名乗りをあげた者たちは、農民よりも失業者が多かったようだ。 彼らは、嵐にあうなど困難な航海の末、ハワイに到着すると、各地のサトウキビ畑に送られた。
ここから日系人の苦しみの歴史が始まる。 炎天下で休み無しで12時間労働させられ、少しでも怠けると現場監督のムチがとんだ。 それで1ヶ月の給料は4ドル程度だったらしい。
過酷な労働に耐え切れず死亡する者、自ら命を絶つ者などが後を絶たなかったと言う。 この様子が日本にも伝わり、日本政府が立ち上がり、40名ほどが帰国した。
残った者の苦難はその後も続く。 しかし、彼らの苦しみがその子孫であるグレッグのような素敵な人間を作っていったのかもしれない。 日本人観光客を暖かく受け入れてくれるハワイの雰囲気も彼らの苦しみがあったからこそだろう。
ハワイの日系人と血のつながりは無くても、僕らがハワイで夢のような時間を過せる事は彼らのおかげであることを忘れないで欲しい。 彼らをRespectしなければならい。
続く
A hui hou.
お久しぶりです!
お忙しい中、こんなにすばらしい記事を書き続けているのですね!
すばらしいですね!
私、このサイト、本当に大好きです!!
あ~ほんと、ほっとしました。
私も12月からは、毎日書いています。
でも、本当の心の中の思いがなかなか表現出来ずもどかしいって感じているの。
でも、今日じっくり、このサイトをまとめ読み(ごめんなさい!)していたら、あ~素直に書いていれば、いいんだ!って思えました。
いつも心に暖かさをありがとうございます!
写真の笑顔、最高ですね~Power戴きました!!
これからも楽しみにしています!!
投稿情報: 山下寿美 | 2005年12 月 8日 (木) 10:12