Sunset at Ala Moana. アラモアナビーチの夕暮れ。 ここでのこの日の夕暮れは、地元のランナーやスイマー達でさながら屋外のジムのようだった。 ランナーもスイマーもビーチで読書をしていた人もそろそろ家路へと着き始めた。 自然と健康にあふれた生活・・・ なんて素敵なんだろう。
Roydenやその家族・ブラ達のおかげで僕も着実にハワイアンスタイルに染まっていった。 Relax friends! Things will be ok. (友よ肩の力を抜こう! いろんな事があるけどみんな何とかなるさ。)
肩を怒らせて自分の主義主張ばかりを貫くのはハワイでは歓迎されない。 自分の事は二の次にして過大な主張をしないのが正解なのだ。
しかし友達や家族のためには力を貸すことを惜しまない。 彼らを喜ばせることをまず一番に考える。 それがハワイアンスタイル。
Roydenのお姉さんのReneeもまた素敵なハートの持ち主だった。 僕が男で彼女が女だからいつも照れていた。 だから若干の距離をとっていたのも事実だったが、いつも気にかけてくれているのは同じだった。
お父さんはいつも怖いイメージがあり、いつも僕は緊張していた。 ある日、お父さんは自分のトラックの修理をガレージで始めた。 その時Roydenは用事で外出していて、家にはお父さん以外の男は僕だけだった。
お父さんがガレージから僕を呼ぶ。 修理を手伝えというのだ。 僕はガレージに出て、お父さんが指示するまま修理を手伝った。 僕の中では、「家でリラックスしている時に客に手伝わせるなんて・・・」と言う気持ちがあったのは事実だ。
しかし、僕はもう客ではなく、Roydenのbra(兄弟)でありお父さんのOhana(家族)だったのだ。 家族が仕事を手伝うのは当然の事だった。
ハワイでは、子供の頃から家族や親戚だけでなく、地元の友人達が大家族のように助け合いながら暮らしているのだ。 そのスタイルはハワイアンと日系人共通のものだったに違いない。
1990年代前半、僕は仕事でアメリカのオハイオ州に3年ほどいたことがある。 東京とオハイオを毎月のように往復していたのだが、オハイオから日本に行く途中にハワイに寄り、2週間ほど滞在してから日本に戻り、1週間ほど滞在した後またオハイオに戻るという生活をしていた。
オハイオからハワイに来ると「本当に自分の居るべき場所に帰ってきた」という実感があった。 肩の力を抜いて自然に振舞っていればそこの流儀にもうピッタリと合うようになっていたのだ。 日本以上にリラックスできる場所になっていた。
そこには日本食もあり、何よりも僕を待つブラやOhanaがいた。 Roydenとはいつも毎日のように遊んで歩いた。 昼は波乗りをし、夜はバーに行って騒いだ。 彼はバーではいつもバドワイザーを飲みながら、大声を上げていた。
ある日、ディスコ(クラブではなく)に行ったが入り口にいたガタイのでかいハワイアンのバウンサー(用心棒)が親しげにRoydenに話しかけてくる。 彼もまたRoydenの知り合いだった。 彼の顔の広さは驚くべきものがあった。
彼のおじさんはホノルル警察の刑事で、別のおじさんはホノルルのマフィアだった。 マフィアのおじさんは兄弟で、それぞれお母さんの妹達と結婚していた。 上のおじさんは本当に目つきが鋭く、なかなか話ができなかった。
Roydenがディスコの用心棒を知っていたのはそのせいだった。 ワイキキからハワイカイ方面に伸びるKalanianaole Hwy (72号線)は、10年以上前はAina Hainaあたりでも片側2車線の道路だった。
それがHawaii Kai周辺の人口が増えるにつれて渋滞がひどくなり、今のような片側3車線の道路に拡幅されたのだが、その工事をしたのがそのおじさんの会社だった。
そのおじさんはベンチプレスで小錦以上のウェイトを持ち上げ、50歳以上の記録でギネスブックに認定されているということだった。 サンディー・ビーチの喧嘩仲裁のRoydenの活躍ぶりに合点がいった。
やはり半端なOhanaじゃなかったのだ。 しかも、従姉妹(この子が本当に綺麗だった)のご主人はハワイ大学の野球部出身でメジャーリーグでピッチャーをしていた。 当時はニューヨークメッツに所属していた。
彼らともRoydenの家で一緒にヒバチをして楽しみ、ニューヨークメッツのTシャツをプレゼントしてもらった。 それも僕の宝物として今も大切にとってある。
いつもRoydenは僕に言っていた。 「ハワイで何かトラブルにあったら必ず俺の家族がお前を助ける。 ハワイは小さいから皆知っていて逃げられっこない。 顔さえ分かれば必ず探し出して、仕返ししてやる。」
ちょっと過激な表現だったが、これもRoyden流の僕に対するAlohaの表現だった。
続く
A hui hou.
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